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登呂遺跡②「小さな道徳」 ―生きるために、何を大切にしてきたのか―

登呂遺跡の展示を見て、「昔の人は大変だった」という言葉が、ふと違って聞こえた。そこにあったのは、不便さではなく、生きるための確かな知恵だったからだ。焼いた魚、集めた貝、育てた米。そして、食べた後に残る骨や殻までも、道具として使い切る暮らし。...
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登呂遺跡①

登呂遺跡は、過去を知る場所ではなく、自分の生き方を静かに見直す場所だった。だからこそ、この展示は、社会科だけで終わらせてはいけない。朝の5分。教室の空気を整えるための、小さな、しかし確かな道徳教材として、登呂遺跡は、今も生き続けている。
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禍福は糾える縄の如し

「禍福は糾える縄の如し」という言葉がある。不幸と幸福は、一本の縄のように撚り合わさり、簡単にはほどけないという意味だ。ある時、自分は、これまで立っていた場所から一歩離れたところに立つことになった。理由を語れば説明はできる。けれど、正解か不正...
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なぜ、私はこの立場に立つのか〜「幸せの三段重」を土台とした、私の立ち位置〜

1. はじめに:学校は何のためにあるのか• 学校は「幸せ」になるためにある• 私は、「この子たちこそが、私たちが手塩にかけて育てた自慢の生徒です」と胸を張って言い切れる教育者でありたい。その一心で、今の立場に立っています。• 私が立脚してい...
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「いくらならやるのか」を、実際に聞いてみた

部活動を地域で担うという議論の中で、一度、極めてシンプルな問いを投げかけてみた。「いくらなら、やりますか?」感想ではなく、金額で聞いてみると、見えてくるものがある。ライセンスによって報酬を分けるという発想例えば、サッカーであれば、指導者には...
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例えばサッカーに見る、日本の部活動の限界

例えば、サッカーを考えてみたい。海外では、インストラクト(教えること)とコーチング(育て、導くこと)は、明確に役割が分かれている。それぞれに専門性があり、当然のように報酬が支払われる。戦術を教える人がいる。技術を磨く人がいる。心理面や成長段...
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学校が部活動を完全に手放してよかったのか

結論から言えば、「手放したこと自体」は妥当だったが、「完全に切り離してよかったか」と問われれば、答えは簡単ではない。この二つは、分けて考える必要がある。手放した判断は、現実的に正しかった部活動を学校が担い続けることは、もはや限界だった。教員...
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部活動地域…移行?展開?

正直に言えば、部活動について現場はずっと振り回され続けてきた。もう一度学校に戻ってくる、ということはたぶんないだろう。それでも、学校から切り離したという決断だけは、私は素直に評価したいと思っている。
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ネットいじめ対策

ネットいじめ対策に、こんな発想はどうだろうかネットいじめ対策というと、「思いやりを育てよう」「相手の気持ちを考えよう」といった啓発や道徳的アプローチが中心になりがちだ。もちろん、それは大切だ。いわゆる「北風と太陽」で言えば、太陽のやり方であ...
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禍福は糾える縄の如し③

不幸(禍)と幸福(福)は、より合わさった縄のように絡み合っていて、切り離すことはできない。今の不幸が、次の幸せにつながることもあれば、今の幸せが、のちの不幸の種になることもある。つまり、良いことと悪いことは表裏一体で、人生は一方向には進まな...